昭和44年12月31日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地ははやることなし。はやることもなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
今日はここの中で言うと、取分け日月の心になること肝要なりと、というなところを焦点にお話しをさせて頂きたい。二、三日前にここんところを頂きましたですね。天地には流行ということはない、だから終わりもない。金光様の御信心、お道の信心はそのために、天地と共に、お道の信心をしておれば、尽きぬおかげが受けられるか、金光教が天地と共に繁栄していくかと、といったような感じを受けますけれども、実はそうではないということをこの前頂きましたですね。
天地は確かに流行こともなかなければ、又、終わりもないのですけれども。金光大神が教えて下さった、伝えて下さっておるいわゆる信心、いわゆる金光教。それそれとても私共が、天地日月心になるという信心がもし欠けたとするなら、金光教はお終いなってしまうかもしれない。おしお終いならなくても、それはもう生きた宗教として値打ちがなくなるね。教会は伽藍堂のようになるだろうね。いわばただ形式だけを残すのみになるだろうという意味のことを頂きましたが。
ほんとに確かにそうですね。そこで私共がですね、道は天地日月の心にならせて頂く、なること肝要なりと言う所をです、ほんとに肝要として、日々の生活の上にそれを現していかなかればならない。そこのところに私共の信心の修行の、焦点というものがおかれるならば天地と共に極まりなく、同時に日勝り月勝り、いわゆる年勝り、代勝りの繁盛、おかげを受けて行く事は間違いと、と言う様な意味頂きましたね。
そこで私共が天地の心とね。天地の心知りたしという信心。様々な問題、又は難儀の中から神様の心を悟ってと、言う事は天地のいわゆる、心を知りたいと言う事なのであるね。そこからお道の信心が本格的な信心になってくる。そこには必ず元なしにあることはない、必ず様々な(?)一つの難儀でありましても、その難儀の元というのが、その元を分かると言う事が、天地の心を分かると言う事ね。天地の心を分かるところからどの様な事の中に、一切の中に神恩奉謝の心とね。
有り難いと言う事になってまいります。それでそれをもう少しく具体的にですね、この日月の心と続けておられるところをね、日月の心天地の心。今朝の御祈念をさせて頂いておってと、まぁ静かに静かに、まぁ日々のおかげのことを願うたり、お礼を申し上げたり、お詫びをしたり、まぁ一時間余りの時間を御神前に、むかずかせて頂くわけでございますけれども。御祈念が終わりがけに、あっ今日は大晦日だなと。
今日は三一日だなと。それこそふっと気づかせて頂いた、というほどしに私には昨日もなかなければ今日はない、今日もないと言う事を感じましたね。だからより平常平日のとおりである。今日は31日の一年中を締め括る日であるからね。一年中のことをお礼を申しておったとか、又、来る年のことを願うておったとかいうのじゃなくてですね、やっぱり平日の通りである。
そしてあらためてあ、今日は31日だったなと。やはり私共のいわゆる習慣というか、日本人はとりわけこの正月ね、元旦とか大晦日というのをを大事にいたします。大晦日の締めくくりがまずかったら、元旦にまでそれが響いてくるという考えをもっております。だから今日という日は、あれも片付け、これも解決のおかげを頂いて、まぁ曲がりなりにも、一年中のことのお礼なりお詫びなりが出来て、そして新しい年を迎いたいという気持ちなんです、ね。
そして思うことなんですけれども、まぁおかげを頂いてこの様な日々が毎日が送られてとするなら、いわば私には大晦日もいらなければ元日もいらないと言う事。又のお教えにもありますように、「日が暮れたら大晦日と思い、夜が開けたら元日と思うて日々に嬉しゅうに暮らせば家内に不和はない」、と教えて下さなければならないほどしに私共の生活はいつもがみだれておると言う事がいえるね。ですから私共のこれは私の場合、まぁ曲りなりにもです。
もう日々がもう夜が開けたら元日と思いと、言う程しに元日の別にいは取分けて思うわけじゃないけれども、有り難いで目が覚めて、いわゆる朝の清々しさというもの。昼の忙しさといもの。夜の有り難さというものが日々繰り返されてところにです、大晦日もなかなければ、元日もないと言う事になるのじゃないだろうか。年末だからこれこれをおかげを受けなければならん、だから今日の御祈念改めて、あっ今日は三一日だなとまぁいうなら、俗人とでも申しましょうかね。普通の人は今日は大変な日だなと。
そのあきにやはり、ここでは昔は大払い式と、一年中の罪穢れ払うてもろうて、そして、新しい年を迎えるという儀式があったんだなと。現在ではまぁ除夜祭とここでは申します。一年中の締めくくりの日を、まぁ除夜祭として一年中の御礼を申し上げ、お詫びを申させてもろうて、又迎える新しい年のことを願わせて頂くお祭りとして、おるわけでございます。ですから、あぁ今日は大晦日だなと気付かせて頂いて改めて、今晩の前夜祭のことを願わせて頂いた様な訳でございましたね。
昨日朝の御祈念の後に、久留米の佐田さん達が親子でここで、お届けされますことの中に、親先生今年の元旦に頂きましたね、より明るくよりにこやかにという御教えの偉大さというか、深さというか広さというか、そう言う様なものをですいよいよ年末になってまいりましたら、後は何日ということになりましてです、その偉大さ深さ広さというか、有り難さというものをいよいよ感じますと。
後残されておる今日、明日、二日間、もういよいよ本気で厳密にね、それこそ水も漏らさん思いでです、こんなことに取り組ませて頂きたいという願いがあったね。はぁこんなことに取り組ませて、まぁ曲りなりも取り組ませて頂いたが、このことのですね、いうなら偉大さ広さ、深さというかね、このみ教えの有り難さというものをです、いよいよ感じて最後の一日になり二日になったその二日をですね、それをもう完璧な思いでそのことに取り組みたいとこういう。
私は今日ですね、先日から天地の、天地日月の心になることが肝要だとね。ここへ信心をおく限りです、金光教はいよいよ天地と共に極まりなく、繁栄していくことであろう、その信奉をさせてもらう私共はいよいよ日勝り、月勝りのおかげを頂くことができるだろう。できる、できる。それは絶対のものだと。そして天地の心といいね、天地の心を分からせてもろうて、天地の心に十全にならせて頂こう、素直にならせて頂こうと言う風に頂いてまいりましてね、いわゆる日月の心。
だからこれをひっくりめていうと、天地日月の心というのは、いわゆる実意丁寧神信心だということにのなるわけですね。天は限りなく与えるもの。地は黙って受けて、受けて受けぬくもの。そういう生活が私共の日常の生活の中に頂かせて頂けると言う事。そこで私は今朝私が御祈念中に感じました。あっ今日は大晦日じゃったなと、それも御祈念の最後の時にそれを感じた、というほどしに私には大晦日もなからなければ元日もないほどにおかげを受けておるなと言う事であった。
ならそういう生活とは、日月の心になると言う事はどの様な事かというと、朝の清々しさと言う事である。これは私がいつも申しますように、私が朝目覚ましのおかげを頂いて、控えに出てまいります。三時半から四時までのこの三十分間の時間というのはもう私にはとってはもう一日の、いうならば、これから働かせて頂くという原動力があの三十分間に頂けるような感じ、実感ですこれは私の。それはそれは、もうこれはもう誰も犯す事が出来ないこの心は。
誰も邪魔することはできない。私の心の中にいわゆる、朝の清々しさと、いう言葉をもってしても足らない思いですけれども、まぁね御教えにそういうふうに頂いたことがありますが。朝の清々しさ、昼の忙しさに向かってそれから入っていく準備がそこにできておる。それにはどうでもです、夜の有り難さというものをもって締めくくっとかなければ、そこはできないじゃないかとこう思うんですね。いわゆる日が暮れたら大晦日と思いという、はぁあれもすんだこれも片付いた。
今日もおかげを頂いて有り難いというその心なんです。もうここは片付かんばってんもう明日にしようと言った様なものではなくてですね。そこに私の目覚ましの上にです、元日の心と言う様なものがです、日々おかげを受けておるだなと言う事になる、まぁ思わせて頂くのです。それを例えば、なら具体的にいうとです、佐田さんの昨日の朝のお届けじゃないですけれども、今日も一日より明るく、よりにこやかにあらして頂くために今月今日一心に願え、おかげは和賀心にあるという。
和賀心を願うてもう様々な問題の中にです、そうあることを願わせて頂いて、取り組ませてもらうという生活。私は信心生活とはね、そういうもんだと思うんですね。今日もおすがりをさせて頂いて、生身のことでございますから、凡夫のことでございますからね。中々いつも嬉しいとか有り難いと言う事ばかりじゃありませんね。イライラがあったりね、心が真っ暗になったり、腹が立ったり、だからそういう中にです、そういう元を追求してです、そこに天地の心を分らせてもらうね。
そしてそれを有り難いという応えにしながら、日々を過ごさせて頂くというのである。私は日月の心というのは、日は日いわゆる又言葉を変えるなら、昼のことだ思いますね。月の心というのは、私は夜のことだと思いますね、日月というのは。だからその日月の心ということは、いかに、ね、有り難い目覚ましのおかげを頂いて、その日一日がです本気で御用に取り組ませて頂かしてもらわなければならないか、いわゆる昼の忙しさという御用にです、取り組まなければならないか。これは日日の心ね。
夜の心というのは、今日もおかげを頂いて有り難いと言う事になるのだね。一日がね、おかげで元気で働かせてもろうた、食べることによってね食べる楽しみね。時間がくればちゃんと、まぁ三度、三度の食事をさせてもろうたが、おやつを頂いたりね。ほんとに食べることの楽しみとか有り難さと言った様なもの、というものはね、ただじぃとしとってから頂けれるものじゃないです。もういっちょん腹減らんけんいっぺんだのかそか。ちゅうごとなってくる、頂いたらもうそれこそ砂をかむごとあるね。
これではいけないのですね。そのためにも、やはり日の心というのはですね、昼の忙しさという中にあって、例えて言うと是は食事のことだけじゃありませんけれども、三度、三度が待ち長いほどしにですね、それこそ度々に舌つづみをうたせて頂いてね、美味い、美味しいという有り難いものを私は身につけさせてもろうて、初めて健康のおかげが受けられる。それがね、頂けていけれると言う事が有り難い。夜はね反対でしょうが。夜中に起きて夜食するなんてということは、いけませんよね。
又は後は頂きません先ず。これは私は食べる、昼食べるとか夜食べないという意味のことを言ってるじゃないですからね、私も卑しん坊ですから、夜食しますけれどそういう意味じゃないですね。夜というものはそういうもんだと言う事なんです。夜というものは今日もほんとにね、美味しゅう美味い一日であった。それが頂けれると言う事が有り難い。健康頂いておる印である。できんこと言う事もなら病院に病気をしておると言う事も今日は私一緒に含めて健康と言いたいのですね。
いうならば、お生かしのおかげを頂いておると言う事なんです。今日もお生かしのおかげを頂いて有り難い。その有り難いがですね、美味しいうまい楽しい。そういういわば、日の心とはそういう心だと思うね。そのためには私共が、昼の忙しさという信心をなさならなければならない。昼の忙しさがあってこそその、いわゆるバタバタ一生懸命、様々な御用に立ち触らせて頂いてこそ初めて、食が美味しい楽しいと言う事になる訳ですね。夜というものは、いわば静かに静かに休ませて頂くもの。
今日もおかげを頂いて有り難い、その有り難いというその(よいん)がです、夜中にね、いわば有り難い夢を結ぶことが出来るのです。私は夜の心とはそいうい心だと思う。いや月の心とはそういう心だと思う。ですから例え日月の心になること肝要と言う事は、いかに私共にですね、いわゆる信心生活を教え、又求めておられるかと言う事をここから感じられますね。
いよいよ今日一日が暮れますと、もう45年ね。新たな年を迎えるわけです。けれどもこれは私、元旦祭だからというて特別めでたいと言う事でもなかなければ、除夜祭だからというて、取分けと言う事もない。正し皆さんのですね、願いとかお取り次ぎをさせて頂くと言う事に成って来るとです、あいすまんのことだけれども、私は今日の御祈念中に、今日のことを忘れておる様な事であった。あっ今日は大晦日じゃ。皆さんにとっては一年の締めくくりである。
それを取り次がせて頂くのが今晩の前夜祭になるのである。そしてやはり皆さんには明日の元日がめでたいものとして迎えられなければならないね。だから皆さんのそういう一年中の信心を取り付かねて、お礼を申し上げるなりに、又はお詫びをさせて頂くことなりと言う事になります。佐田さんの昨日のそのお届けじゃないですけれどです、本気で私共がです、一年間をどのぐらいに過ごしてきたかと。
どの位言わば日月の心になること肝要と仰る、日月の心というものが、生活の上に現れてきておったかと。そこんのところをですお礼を申し上げたり、又はお詫びをさせて頂いたりさせて頂かなければならんとこう思うね。そしてその教えに取り組ませて頂いたその教えのね、いよいよ素晴らしいこと広いこと、深いことをです例えばなら、今日も一日でもよいね。いよいよ明るくとか、より又はにこやかにと言う事がですね、有り難いものであるかそういうおかげを受けていくことに精進することが。
成る程信心生活だなと、分らせて頂いたらね。今晩の又お祭りがね、大変意味の深い有り難いもの。一年中ここに締めくくらせて頂くという、思いがいよいよ頂けることであろうとこう思います。私共が今日頂きましたね、又いくつか前に頂きましたこの、やはり同じ御理解七節をです、本気で分らせてもろうて、天地の心を心としての生活にならせてもらうことに精進させてもらい、今日も又いわば、日月の心と言う事について、又は具体的に頂きましたね。
そいうい私は心の状態を願わせてもらい、もう信心にはこれが一番肝要であると分らせてもろうてね、そこから頂けてくる大変な、いわゆるおかげ。それがいよいよそれを本当なものにしていく。天地日月の心になること肝要という信心をです、生活の上に頂き現していくと言う事がです、いよいよ日勝り、月勝りのおかげを頂かせて貰う事になり、厳密にいうとですそういう日々ね。
教祖様が日が暮れたら大晦日と思い、世が開けたら元日と思うてと、仰るそれが日々繰り返されて行く様なおかげを受けて、初めてです大晦日もなかなければ元日もないというほどしの一年中がお目出度いというおかげにつながってくると思うのです。元日だけがめでたいね。毎日、毎日がお目出度いというおかげ。そいういおかげにつながらせてもらう信心を頂きたいと思いますね。
どうぞ。